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武蔵野航海記

武蔵野航海記

北条泰時

泰時は幼いときから優しい気持ちを持っていたようです。

十歳の時、道ですれ違った御家人が馬上のまま泰時に挨拶をせず通り過ぎていきました。

これを知った頼朝がその御家人の無礼を怒り、泰時に尋ねると、そのような事実はありませんと御家人をかばいました。

頼朝は「優美な心の持ち主よ」と褒美として泰時に愛用の剣を与えたということです。

飢饉の時には、金持ちから幕府が保証人になって米を借りそれを餓死しかかっている人に貸し与えました。

来年平年作になったら元本だけを返納し利息は泰時が負担するという条件でした。

無償配給だったら米を横流しする恐れがあったので貸付にしたのでした。

しかし泰時は返済能力のないものには返済を免除し、その分自分で費用を負担しましたが、その額が九千石ですっかり貧しくなったそうです。

また、自分の生活を切り詰め食事も抜いています。

支配者としてのポーズというよりも自分が率先して実行しないと全国的な節約が行われないと考えたからでした。

父義時が死んだ時、義時の後妻が実子正村を跡取りにしようという陰謀がありました。

しかし一件落着し泰時が跡を継いで執権になった後も弟の正村を処分していません。

又遺産も弟たちに自分より多く与えています。

今まで一人だった執権を二人にし、新たに十一人の評定衆を置いて合議制をしきましたが、その中にはかつて謀叛を計った伊賀光宗が入っており、いかに「和」と「無欲」に徹していたかが分ります。

このような泰時なので、当時から現在まで無欲で偉大な政治家という評価が定着しています。

鎌倉幕府は武士である御家人の権利を守るためにある政権ですから、御家人の所領の法的保障を主目的とした法典を編纂し裁判制度を充実しました。

泰時の編纂した「貞永式目」がそれです。

この法典にも明恵上人の「あるべきようは」の思想が取り入れられています。

幕府は国家ではないので法律を勝手に制定することは出来ないはずで、貞永式目制定は非合法な行為です。

しかし、国家の権威とは独立している宗教的権威を背景にしており、この権威に基づいて人々に貞永式目遵守を要求できたとも考えられます。

平安末期の田舎武士達は律令など知らず、儒教の「天」という超越的存在から善悪の判断を導き出したわけではありませんでした。

それぞれが内心で正しいと考えたことに従って紛争を解決してきました。

そしてこの武士たちの判断積み重ねたものが慣習法を形成しました。

自然に存在するものを無欲に受け入れるのが「あるべきようは」ですから、これらの武士の慣習法を正当化する根拠を提供しています。

日本法制史では、平安時代末から室町時代にかけては慣習法の時代と考えられています。

律令という成文法体系の大部分が死文化して三グループの慣習法に置き換わっていたのです。

朝廷及び公家を規定する慣習法は、令外の官が出した行政命令から出来た慣習法を主体とし、それに本所法(荘園内部を規制する慣習法)及び律令の規定の一部が混じったものです。

又寺社を規制する寺社慣習法がありました。

武士の慣習法の中で幕府が明文化を必要だと考えたものが貞永式目になりました。

泰時は貞永式目の施行範囲から公領・寺社領を除外しました。

鎌倉幕府は武士である御家人を保護するための組織であり、日本全体を統治するものではないという考え方からです。

公家領主と地頭、あるいは地頭同士の紛争に適用範囲を限定したのです。

しかし幕府の支配権が徐々に日本全土に広がっていき、「朝廷・公家の慣習法」「寺社の慣習法」と「武士の慣習法」は互いに影響しあってひとつに纏まっていきました。

この結果、鎌倉時代末には、ほぼ日本全体に貞永式目が適用されるようになっていきました。

貞永式目は鎌倉時代だけでなく、室町時代でも基本法の地位を維持しており、室町幕府の制定した「建武式目」は貞永式目に対する補則法です。

江戸幕府は、「禁中並びに公家諸法度」や「武家諸法度」といった一部の権力者を統制する法律は作りました。

しかし社会全体を規制する法典を編纂していないようです。

そのため実質的には、貞永式目が江戸時代の基本法で、寺子屋では貞永式目が教えられていたのです。


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